2008.07.03保育の深海 01 ~わたしのなかの私~【園長のひとり言】
『人は「生きる」ために生きる』以前ある先輩が言っていた言葉だ。当時、そのフレーズに全くピンとこなかった。何だか当たり前な気がして。だから、その言葉の本意を聞くこともなく記憶の奥にしまいこんだ。
私が園長をするようになって3年。新しい保育園と一緒に歩んできた、この3年は苦労の連続だったが、職員の意欲と頑張りに助けられてきた。今更ながら、よくこんなに素晴らしいスタッフばかりに恵まれたものだと感謝する。その自慢の職員と未来に向って力強く育っていく子どもたちに寄り添いながら創造してきたなごみ保育園という子どもの社会。積みかさねた時間の分だけ成熟していると思う。それでも、保育が深まれば、深まるほど課題が浮き彫りになる。子どもたちのより豊かな育ちとは、より健やかなる成長とは何か悩み、考える。そんな時、何気なく過ぎ去っていった言葉。『人は「生きる」ために生きる』が私の意識に顔を出す。
「生きる」ために生きる。当たり前だと思った言葉が私の心に引っかかる。この短いフレーズがグルグルと頭のなかで駆け巡る。そして、自問する。「生きる」とは何だ。もちろん生きるは、容易に生物学的な生きるだと分かる。問題は、「生きる」の本性だ。その抽象的概念が気になってしょうがない。だから、自分なりに紐解こうと、その「生きる」の意味するところを考えた。
我々人間は本能を失ってしまったと言われている。動物の2大本能、生きるために食べること、より強い子孫を残すこと。いずれも、人間は選り好みをする。より美味しいものを食べたい(ダイエットなどで食べないこともある)と思うし、より素敵な異性(同性の場合もある)に出会いたいと願う。もちろん発情期など存在しない。では、どうやって人間は生きているのか。他の動物のように本能のみに従って生きることはできない本能が壊れてしまった人間。人間が生きていくためには本能を代用するものが必要なのだ。そこで、登場するものが「こころ」だ。人間のなかに「こころ」の存在を仮定する。少なくとも心理学ではそう考える。本能を代用する概念「こころ」。「こころ」は意識、無意識の領域から私たちの行動を決定する。そして常に要求し続ける。よりよく、より豊かに生きることを。
よりよく、より豊かに生きる?鈍感な私がここで気がつく。頭のなかでぐるぐるしていたものが平行に並び、構造化される。「生きる」という言葉の隣に豊かな「こころ」の発達という言葉が足を揃える。そして、「こころ」の向っていく先を段階的に見つめる。なぜ段階的なのか。それは、「こころ」の発達を私のなかで鮮明にするためにエリクソンの漸成的発達理論というフィルターを通しているからだ。そして、アイデンティティーという言葉がパズルを完成させる。「こころ」が発達する先にあるアイデンティティーの確立。つまり、人間は生まれてからずっと「こころ」の欲求を段階的に、満たされ、満たしながら自分を探し、社会のなかで、ひとりの私になっていくのだ。
かなり遠回りしたが、今なら分かる。人は間違いなく「生きる」ために生きている。私なりの表現をすれば、人は「社会のなかで自立した私になる」ために生きているのだ。それは、まさに子どもが大人になっていく発達・成熟のプロセスであり、子どもたちは常に自分の「こころ」の欲求を大好きな人に満たして欲しいと願っている。ひとりの私になるために。