2012.07.30戦うということ。 【園長のひとり言】
大津の事件以来、さまざまなことが表面化している、いじめ問題を見る度に、あるドラマのセリフを思い出します。
「誰にも責任を取らせず、見たくないものを見ず、みんな仲良しで暮らしていければ楽でしょう。しかしもし、誇りある生き方を取り戻したいのなら、見たくない現実を見なければならない。深い傷を負う覚悟で前に進まなければならない。戦うということはそういうことだ。」ってね。
でも、多くのマスメディアがしているような、教育委員会と学校をA級戦犯にして吊し上げている責任の取らせかたには、全く共感できません。いじめと本質的になんら変わらないから。不幸な人やそういう風に見える人の上に立つことで、幸福感を獲ようとしているだけ。それにハインリッヒの法則に従えば1つの重大な事故の背景には、29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在すると言われ、それらを見落とし続けてきたのは、けっして学校だけではないはず。
もちろん、教育機関には問題はあったでしょう。でも、それは構造的なもので、変えなければならないのは、その仕組みや体質。しかしもし、いじめによる悲劇を無くしたいと本気で思うのなら、いじめという問題と戦う強い意思があるのなら、責任は私たち一人ひとりにある、と思わなければなりません。
その責務は、子どもたちの自尊心を未成熟なまま育て続けてきた過ち。個人的にではなく社会的に、です。子どもの「人より早く、上手に、たくさんできる」に価値を見いだしている乳幼児専門機関が山ほどあるというのは、そういうこと。そして、それは早期教育を望む強い風潮の裏返しです。
嫌味な上司の同僚と比較された叱責をイメージすれば容易に分かるのですが、人は、人と比べられ評価されることで最も傷つき、小さな子どもほどその受けた傷はずっと後まで残ります。そして、その傷ついた心は、無意識的に自分より遅い、できない対象を見つけてバランスを保とうとします。もしその手段が暴力的であれば、それが、いじめ。
だからこそ、私たち全員が背負わなければならないのです。それは、成熟した社会を根底から支えてきた精神をもっと強く意識するという共同作業。親や目上の人を敬い、友だちや仲間を思いやり、年下の人や小さな子どもに心を配るということを、ね。
と、いつもはここで終わるのですが、問題が深刻なので、もう少し突っ込んでお話します。現実として、いじめがすぐにはなくならない、存在するという前提に立つと必要なのは、それをできる限り抑止する仕組みだから。
そして結論的に言えば、いじめに限らず、人の行動規範を傾向づけるのは社会的常識という名のたくさんの人々の視線でしかない。ならば、子どもたちを中心として、いじめを個人的な道徳心や教員の力量に依存させず社会的に認めないという仕組みをつくればいい。例えば、予算投下を条件とするなら児童相談所あたりが妥当だけれど、中立的な第三者機関へ罰するためではなく、その事実を露わにするために、いじめの通報を義務化すべきだと思うのです。それは通報が誰も不利益を被らない正当な行為だという価値観を与え、子どもたちにとっても、その振る舞いがごく自然であたり前だと思えるようになる可能性を意味します。もちろん、これは、抑止するためなので、いじめの本質的な解決とはなりません。が、今、最優先されるべきは、学校のプライドでも社会的正義でもなく、一人ひとりの子どもの人権を守ること。暴力装置を教育現場へ発動する前に。