2013.05.02抽象的思考の扉を開く言葉 【園長のひとり言】
「虚像の道化師」と「禁断の魔術」。この少し怪しげなタイトルは、東野圭吾さんの小説ガリレオシリーズのそれ。すでに読み終えてしまっているので、近ごろ放送しているテレビ版ストーリーへの興味は、幾分薄れてしまっていますが、天才物理学者湯川先生役のあの人の、いつも通りのカッコいい演技でついつい引き込まれてしまいます。
フレミングの左手の法則で顔を覆いながら、さまざまな難事件を論理的に解明していく反面、たとえば感情や子どものような非論理的なものは苦手という変人ぶりが、実に面白い。
湯川先生を擁護するわけではないけれど、確かに子どもたちは論理的、とは言えません。特に乳児(0歳~2歳)は、感覚運動期といって文字通り感覚と運動器官で世界を理解していくので、おおよそ論理とかけ離れたところにいます。
ただ、幼児期となると、少しロジカルに考えられるようになっていきます。が、やっぱり感覚に引っ張られることの方が断然多い。そう、ピアジェ的に言えば前操作期という名の過渡期なのです。
その兆候は言葉のなかに見てとれます。以前、話し言葉について書きましたが、それではなくもう一つの視点。それは、声に出されることがなく頭のなかで展開される内面化された言葉、内言(ないげん)です。一方、前述した話し言葉は、外に向かって発するので外言(がいげん)と分類されます。この考え方は、ちょっとややこしいですが子どもの成長を捉えるうえで大切なので頑張って説明していきます。
まず、内言は私たちの内側にある、つまり考えるための言葉であるということ。構造や語彙は外言と同じですが、この発達によって抽象的思考の扉は開かれていきます。少し分かり難いですね。例えば、目を閉じて明日の予定を思い浮かべてください。
「会社に行って、メールをチェックして、取引先へ向かい、あれっ、その後は…?」
と考えたとしましょう。でも、この通りの言葉は使いません。頭のなかで、です。もちろん、会社に行って…っと、はっきりとした言葉を紡ぐこともできますが、意識しなければ絵にもならないくらい漠然としたイメージだけが広がっていたはずです。
しかし、これらを他者に伝えようとすれば、その捉えどころのないものから、一部を切り出し自分で見えるようにしなければなりません。私たちはそれを言葉によって整理します。これ、です。この言葉が内言なのです。そして、次にそれを外言化します。つまり書いたり、言葉を発したりするのです。
でも、成熟過程は逆。この内言の習得は、外言の豊かな発達によってもたらされていきます。外が先、内が後、そして論理的思考、という具合に。重要なのはここ、この順番です。
子どもは考えられるようになったから、話しているのではなく、自分の声という音に対する周りの反応によって色々なものを意味づけて(使い方を覚えて)いき、その後、それらを内側にいれることで論理を操れるようになります。
だ・か・ら、幼いころの言葉には行動がともなわないのです。4歳くらいの子どもが絵をかきながら、「ああして、こうして」とひとりでブツブツ言っていることがあります。これはモノローグと言って内言が無意識のうちに口から洩れている状態。思いついたことをすぐに口にしてしまうのも同じ。「あ、それ知ってる」と、ね。まだ、内言が育っていないから。
お分かり頂けましたでしょうか。とどのつまり、湯川先生は超がつくほど天才的に内言が発達していると言いたい訳ではなく、その内言を育むためには、たくさんの感覚を使った外言の成熟が不可欠だということ。そして、その助けとなる環境を考えるのが私たち保育者の役目なのです。そこにこそ、机上で記号を暗記することでは得られない、生きた言葉の豊かな体験があるのだから。