2014.02.03道徳教育のパラダイムシフト 【園長のひとり言】
小中学校の「道徳の時間」が「特別の教科」へ。そして、国語とか算数のように検定教科書が導入されるらしい。その決断は、中教審で充分議論されてのことだから、必要なことなのでしょう。きっと。
ただ、少し気になるのは、これらの背景にいじめの問題があるのだとしても子どもたちの道徳心の成熟度は私たち大人のそれと相関関係があるわけで、卵が先か鶏が先かってことです。だって、幼いほど大人の価値観に大きく影響されていくのだから。
たとえば、早期教育を流行らせているは、子どもの「人より早く、たくさんのことが、上手にできる」ということを評価する大人の思いだってこと。そして、その理想は刹那的な優越感と引き換えに、できないことを差別したり、見下したりするような誤った観念を育ててしまう危険性をはらんでいます。
だから難しい。そもそも、道徳とは何でしょう。文科省は「生命を大切にする心や他人を思いやる心、善悪の判断などの規範意識等」と言っていますが、もう少しシンプルに表現するなら他者の立場から、その役割やものごとをイメージする力、です。
そしておそらく、否、間違いなくこの力の根っこは乳幼児期にあり、それは教えられて、ではなく経験によって育ちます。愛情に守られた心地よい体験からはじまり、自我の萌芽とともに友だちとの関係を深めていくなかで、ね。
だって幼児期になると自然と、他者の立場や役割から振る舞いたいという欲求をもつでしょ。ごっこ遊びが、まさにそれです。
ただ、この遊びが、どれだけ広がっていくかは大人の、そう保育者の腕しだい。お母さん。店員さん。お医者さん。その役割を象徴するようないろいろな道具や衣装、雰囲気等々。遊びの環境がより豊かな想像力を喚起させていきます。
なりきることで見えるいつもと違う世界は、他者の気持ちを理解しようとする体験に他なりません。しかも、ココがポイントで、前述した通り、そうしたいという動機が子どものなかにあるのです。
もうお分かりですね。そうです。この体験の繰り返しの先にあるもの。それが、教育としての道徳です。自発的になりたいと思う他者の気持ちと教えられて学ぶ道徳。どちらも必要だけど、大切なのはその順番とタイミング。だからこそ、まずは正しい子ども観を大人が持つことから始めなくては。つまり、鶏が先ってことね。